2005年6月アーカイブ

都営地下鉄大江戸線の本郷三丁目駅で、カサをさして電車を待っているおっさんを目撃した。

大江戸線には地上区間がないことは、以前も書いた。ゆえに、何をどう考えてもカサをさして電車を待つことはありえない。
地上区間を走り、なおかつホームに屋根のない駅であるなら理解に難くないのだが、ここは地下深くを走る大江戸線の本郷三丁目駅だ。おっさんに何が起きたのか。

しかし、ここで断っておきたいのが、僕はそのおっさんの後姿のみを見た、ということだ。
あくまで、カサをさしていた後姿がおっさん的だったにすぎない。

もしかしたら、おっさんではなくトトロだったのではないか、そんなことさえ脳裏をよぎる。
事実、後姿は似ていた。カサとか色とか体型とか。

「地下鉄駅でカサをさしながらおっさんが電車を待つ」も「大江戸線本郷三丁目駅にトトロ出現」も、どちらも"ありえない現象"というフィールドでは同じことである。どちらに夢があるかなんて、考えるまでもない。

早く僕のところにもやって来ないかなぁ、猫バス。

 

#119 バニラトラップ

バニラエッセンスの苦味には、だまされたクチである。

小さいころ、実家の食卓にあったバニラエッセンスを大量にクチに入れ、味わったあの絶望。今でも極彩色でよみがえる。
なんというか、カラダ中の60兆の細胞が、いっせいに「えー、マジで!?」って叫んでいた感じがする。
「えー!」って言いながら足を中に向け、ひっくり返っているイメージだ。同時に砂煙も立ち込める。星も飛び出す。

甘いニオイに誘われ、一網打尽される僕。バニラエッセンスサイドも、もう少しサービス精神を見せてくれてもいいじゃないか。

びっくりして、食卓で半べそになる幼い僕。母親にまで「バカだね~」となじられる。
しかしそれにも関わらず、僕はまたクチにした。自分の味覚がおかしいと思ったのだ。こんなハズはない、こんなに甘い香りなのに。
そして再びひっくり返る、60兆の細胞たち。2回ひっくり返ったので、天地は正しくなった。

23歳になったいま、消費者金融の CM やお色気スパムメールを見るたびに、バニラエッセンスで味わった絶望を思い出す。

 

#118 父さん (15)

6月19日。
父さんが亡くなってから時間は流れ、ひと月近くが経った。

今日は父の日である。生まれて初めて迎えた、父のいない父の日。

父さんの余命が2ヶ月と告げられたあの日、父さんと迎えられればいいなと思っていた父の日。でも、結局それはかなわなかった。
僕はこの先、父さんにその感謝の気持ちを父の日に伝えることは出来ない。プレゼントも出来ない。父さんには何もしてあげられない。
それが"死"というものなのだ。永遠の離別。

でも僕は、充分すぎるほどにたくさん、父さんに感謝の意を伝えられた。それは建前でもなんでもなく、僕の内面からストレートに湧いてきた気持ちであった。
そういう意味では、僕は後悔はしていない。父さんもまた、面倒くさいと思われながら渡されるネクタイなどのプレゼントを受け取るよりもきっと、純粋にうれしかったであろう。

何度も何度も言う。僕はそう思うから言う。本当にありがとう、父さん。

僕のパソコンのディスプレイの横には、あの腕時計。亡くなる2週間前の父さんからもらった、腕時計。父さんの形見の、腕時計。
相変わらず、この時計は少し遅れた時を刻んでいる。

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次の更新からはまた、バカ話とかを書いていきたいと思います。
私情の駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

#117 父さん (14)

5月26日。
抜けるように青い空と、こまごまと浮かぶ白い雲。日差しは強く、本当にいい天気である。

僕の父さんは灰になり、この高い空へと舞い上がっていった。これだけいい天気である、きっと迷うことなく行くべきところへ行くことが出来るであろう。
家族の写真と、お店で料理を作っているときに着ていた作業着も一緒に、父さんはこの空を舞い上がった。10年くらい前に飼っていた ねこ の写真も一緒だし、きっと寂しくないハズだ。

父さんは柔和な表情のまま、高温で焼かれてしまった。やはりそれは、とても寂しくて悲しくてつらかった。
でも、こんなにいい天気である。悲しいけれど僕には悔いはなく、父さんもこの青い空を喜んでいるだろう。

あの日、父さんと一緒に歩いた日。あの日も確か、これくらいにいい天気だった。
冬の日にしては強い日差しのもと、僕と父さんはずっと一緒に歩いていた。「ここもマンションになったんだ」「今日はこの公園に ねこ いないね」、そんなどうでもいい会話を繰り広げながら。
僕と父さんは、一緒に並んで歩いていた。青い空と日差しのもと、歩いていた。幸せな時間だった。

今日もいい天気なのに、父さんは僕の隣りにいない。父さんは、なんだかずいぶん小さな箱に入ってしまい、兄さんに抱えられている。

初夏の強い日差しのもと、僕と父さんは別の道を歩くことになった。
こんなにいい天気なのに、もう一緒には歩けない。父さんはずっと遠くに行ってしまった。手を伸ばしても届かない、この空のさらに上へ。

空を見上げる。そんな僕にはやはり、この言葉しか言えないんだ。

「お父さんの子供に生まれて、僕は幸せだったよ。本当にありがとう。」

 

#116 父さん (13)

5月23日月曜日。
午前4時半ころ、急に目が覚めた。可燃ゴミを出す日であることを思い出したのである。

そういえば、父さんはゴミ出しの日にはうるさい人であった。そのおかげで、僕はキチンとゴミ出しの出来る大人になった。
だが、資源ゴミの概念は理解していなかった。空き缶を資源ゴミの日に出そうとすると、「あれ、今日は燃えないゴミの日じゃないだろ」とよく言っていた。ワリと最近までそう言っていた。

都合のいい解釈をすれば、きっとこの朝、父さんが僕を起こしてくれたのだろう。最期に、ゴミ出しのために僕を起こすなんて、本当に父さんらしい。

ゴミ出しをして、しばらくテレビを観ているうちに始業時間近くになり、会社に休む旨を伝える。
会社に連絡して、ホッとして眠り込んでいたとき。デンワが鳴った。

「お父さん容態が悪くなったって、すぐ病院に行って! お母さんもこれから行くから!」。
母さんは慌てていた。想定内の出来事でも、やはり慌てる。
僕は急いで着替え、病院に向かった。病院への道程は急ぎ慌てていたからか、ほとんど覚えていない。

病室へ駆け込むや否や、横たわっている父さんに声をかける。
それを見た母さんは「もう(声をかけても)わからないよ...」と、あきらめの表情で僕を諭した。父さんの心臓は、もう止まっていたのだ。でも、まだカラダは温かかった。

僕の到着を見て、主治医が「では、ただいま、11時30分、ということで...」と言い、2005年5月23日11時30分、父さんの死亡が確認された。

父さんの長い闘病生活は、こうして幕を閉じた。

父さんの死を目前にしても悲しみの感情はなく、むしろ病気の苦しみから解放されてヨカッタね、そういう一種の安堵の気持ちに近い感情や思いを、僕は持っていた。恐らく、家族みんながそうであったと思う。
「お疲れさま、よくがんばったね、本当にありがとう」。僕はとにかく、そんなことしか言えなかった。

父さんは、その長い闘病生活のつらさを微塵も感じさせないような、柔和な笑みを浮かべて、永久の眠りに就いていた。
その表情に、父さんのもつ優しさすべてが、集約されているような気がした。

 

#115 父さん (12)

5月22日夕方。大粒の雨の中、カサを持たない僕は、びしょぬれになりながら自転車を走らす。
街の誰もが、カサを持っていなかった。想定外の夕立。

いま考えると、この想定外の雨は、父さんが降らせたのではないか。僕の帰りが、悲しかったのではないだろうか。いわゆる"涙雨"である。
なぜなら父さんが僕を認識したのは、この日このときが最期だったからだ。

別れの感情を具現化するため、もう感情をあらわにすることすら出来ない父さんは、想定外の奇蹟を起こした。僕は、そんなふうに考える。

その日の夜は、彼女の家でごはんをごちそうしてもらった。彼女の家には、3匹の子猫がいた。なんでも知人のそれを預かっているらしい。
こうして生まれ出でて間もない生命もあれば、もうすぐ消えようとしている生命もある。愛らしい子猫を見ても、そんなことを考えてしまう。
ごはんをごちそうしてもらったのだが、やはりすぐに吐き気と腹痛が襲う。つらい。でも父さんは、病室で孤独なままもっとつらい思いをしているんだ...。

そして、20時くらいから強烈な胸騒ぎ。まったく気持ちが落ち着かない。
父さんのことが、とても気になる。僕を呼んでいる気がする。

父さんの死まで、残りおよそ12時間であった。

 

#114 父さん (11)

5月22日午後、父さんを見舞う。
荒かった呼吸は浅くなり、きっともう目も見えていないのだろう。焦点は合わず、瞳の動きに意思が感じられなかった。半開きの目は何を見るともなく、天井を向いていた。
僕の呼びかけにも、応答はなかった。

父さんは弱い呼気とともに、声を発していた。「ああ」とも「おお」ともつかないが、何かを言っていた。
父さんの五感は、多くが絶たれている状態である。目は(恐らく)見えず、手足はむくみ感覚に乏しい。クチには酸素マスクをしているので、味もニオイも解らない。さらに痛み止めも打っているので、各感覚がさらに鈍くなっていることだろう。あるのは聴覚のみか。
憶測に過ぎないが、呼吸しか出来ない父さんは、呼気とともに声を出すことで、自分の存在を確かめていたのだろう。自分はまだ生きている、ということを。

暗闇の中で聞こえる、自分の声。
それは、自らの存在と生の証である。そうすることでしか、自分の存在と生を証明できないなんて。
そんなことを考えた僕は、怖く、悲しく、切なく、つらく、否定的な感情しか覚えられず、とにかく胸が苦しくなった。

「お父さんの子供に生まれて、僕は幸せだったよ」。
突き動かされるように、暗い気持ちを打破するかのように、僕はそう言っていた。

僕の存在は、父さんの生の証である。
父さんがいなければ、僕は生まれてこなかった。父さんがいたから、僕は幸せに育ってきた。
こうして父の病状を心配でき、人や動物や花やモノさえをも愛し、喜びや悲しみを共有でき、人を楽しませようと思うことのできる人間に育った僕は、本当に幸せだった。
ありがとう。本当に、ありがとう。本当に...。

その言葉を聞いた父さんは、小さく小さく、うなずいていた。もうほとんど、意識なんてなかったのに。
父さんは確実に、生きていた。このときまでは、確実に生きていたんだ...。

外では雨が、降り始めた。

 

#113 父さん (10)

5月22日。
正直なところ、僕のカラダも疲れていた。

父さんの死は悲しい。だがあのまま、「呼吸をするためだけに」生かせておくことも、つらい。

そのジレンマの中で、僕は父さんの容態をどう心配すればいいのか、解らなくなってきた。死んでほしくない、でもあの状態で生きていてほしくもない。
本人はどうしたいのか。ところが彼はしゃべれない。父さんだったらどう言うかな。...解らない。
どうすればいいんだろう。どうしたらいいんだろう。僕は何をするべきなんだろう。

僕の精神は限界に来ていた。それによって、体調も崩していた。
食事をすると僕を襲うのは吐き気。そして強烈な下痢。

でも、父さんはもっとつらい思いをしているんだ。僕はそう考えるようにした。
不毛な考え方だということは、もちろん解っている。

 

#112 父さん (9)

5月21日。
やはり母さんからの連絡はない。

午後になり病院に行き、父さんを見舞う。
父さんの呼吸はさらに荒く、顔色は悪い。「おー...、おー...」と、つらそうな声を呼吸とともにあげている。
死の足音は、確実に彼のもとへと近づいている。

もう反応さえもしてくれないのではないか、そう思いながらも、父さんに話しかける。父さんは、呼吸による音とは違うリズムで「おぉ」と、言ってくれた。
ただそれだけなのに、僕は嬉しかった。

父さんはお酒がスキで、たくさん飲んではよく僕に絡んできた。僕はそれがとてもイヤだった。
そして、それが原因で肝臓を壊し、父さんはこんなふうになってしまった。
でも今の彼には、そのどれも出来ない。お酒におぼれることも、僕に絡んでくることも...。
もう少しだけ、カラダをいたわればヨカッタのに。そうすれば、誰もイヤな思いをしないで済んだのに...。

17時ころに所用でいったん病院を2時間ほど離れ、再び病室に向かった。2時間くらいおいただろうか。
たった2時間のあいだでも、彼の容態は明らかに悪くなっていた。顔色はさらに悪く、土気色になっていた。

生まれたばかりの赤ちゃんがどんどん成長していくように、生命の終端が近づくにつれ一刻を争うように人間の容態は変化していく。
父さんの死が、どんどん現実味を帯びていった。

 

#111 父さん (8)

5月20日。母さんからの連絡はない。
有事には病院からの連絡が母さんに行くことになっている。そのときはすぐに僕にも連絡してくれるように、母さんには頼んである。

この日は金曜日だったのだが、会社には事情を伝え、休みをとった。
休みをとることに引け目を感じていたのだが、上司は「その判断は、むしろ褒めるよ」とメールしてくれた。本当にありがたい。
午前中は何ごともなく時間が流れ、午後になった。面会時間は午後3時からである。僕はすぐに病院に向かった。

父さんの容態は、明らかに悪化していた。

止血するための細胞がカラダに不足しているからか、父さんのクチは血だらけだった。頬は昨日以上にコケていた。目はうつろに半開きで、ただ上の辺りを見ていた。呼吸は荒い。

ガンに侵されると、かなりの痛みを伴う。
その痛みを感じなくさせるための痛み止めを処方するのだが、その際に動悸が早くなり、体力を消耗するのだ。姉さんいわく、マラソンをするくらいの体力を使うらしい。
動悸が早くなると、酸素を必要とする。そのため、呼吸も荒くなる。
この日の時点で、父さんは呼びかけに応答することも難しくなっていた。話しかけても、反応がないことの方が多くなっていたのだ。

つまり、荒く呼吸をするためだけに、父さんは生きているのである。

そういう状態である。それを目の当たりにした僕は、"つらい"という言葉しか、思いつかなかった。僕も父さんも、双方につらい。
父さんが呼吸をする間で、時折タンが絡む。それに対し、イヤそうに目をグッと閉じ、ウデを振る。彼はもう、その程度の動きしか、出来ないのである。

起き上がることも出来ない父さん。病魔が、彼の全身を蝕む。
僕は失意のまま、病院を後にした。

 

#110 父さん (7)

5月19日。父さんを見舞い、思う。
父さんは、本当に僕のことを気にかけていた。

バイトなどで僕の帰りが遅くなると「まだ帰って来ない」とひたすら心配していたようだったし、しかもそれが22歳になっても続いていた。21世紀になり、携帯電話というベンリなものが普及しても、だ。
つい先日実家に行ったときは、僕がその辺でうたた寝を始めると、静かに毛布をかけてくれていた。毛布をかけられたことには、まったく気づかなかった。父さんの心配は"優しさ"として、ストレートに僕を貫く。
しかし、うつろな目をして横たわっている父さんには、もうそんなことさえできない。彼には呼吸しか、出来ないのである。

悲しい。僕はそうとしか思えなかった。
そして、せめてもと思い、父さんにお礼をした。

「ここまで育ててくれてありがとう。僕はもうひとりで生活出来るし、お給料ももらったよ。だからもう、心配しなくても大丈夫だよ」

胸が詰まって、コドモっぽい言葉しか出てこなかった。心配しないでもらいたくてこの言葉を伝えたかったのに、このザマである。

でも父さんは、カオをクシャクシャにして笑ってくれた。一見何の表情だか解らないのだが、彼は確かに笑っていた。
父さんの笑顔を見ることが出来て、本当にヨカッタ。

そうだ、腕時計のお礼を忘れていた。

「あと、この腕時計ありがとう。時計があるとベンリだね。絶対に大切にするよ。でもこの時計、よく遅れるんだ」

僕がそう言うと、父さんはまたカオをクシャクシャにしてくれた。

 

#109 父さん (6)

5月19日木曜日。
あの日から病院には行っていない。さすがにあの状態をこれ以上見るのはつらい。あんな状態なら、いっそのこと死んだ方が...、そんなことも考える。

定時まであと一時間くらいになったとき、母さんからメールが届いた。
「どこにも寄らずにすぐ帰って病院まで来てください」
心臓が締まるあの感じを、僕は強く記憶している。

僕は上司に事情を伝え、すぐに帰路に就いた。
駅のホームも、地下鉄の車内も、タクシーの車窓も、すべてに色がない。焦燥感が、五感のすべてを奪っていた。
父さんにもらった腕時計。ここだけに、色がある。秒針が、ゆっくり動く。

病院に着いてから初めて、どの病室に行けばいいのだろうと考えた。が、病院に入ってすぐに姉さんを発見し、ややホッとした。
姉さんと病院のエレベーターに乗り、病室を目指す。なかなか閉まらないドアにイラ立ちを見せると、姉さんがすぐに"閉"のボタンを押した。目的階に着き、病室に駆け込む。

父さんは、酸素マスクをつけられ、横になっていた。僕のカオを見た瞬間、父さんは目を大きく開き「おぉ」と言ったが、そのあとはうつろに、ただ何となく上を見ていた。
もう、自力で起き上がることも、言葉をしゃべることもなかった。

父さんの生命の末端が本当に近くまで来ていることを、僕は悟った。
そして母さんから、「明日の明け方くらい...、だって」と、その瞬間をいつ迎えることになるかを、僕は聞いたのである。

 

#108 父さん (5)

5月16日、会社の帰り道に姉さんからデンワがかかってきた。
「お父さん、会える状態になっていたから、オマエも病院に行ってきな」。

12日に入院してから父さんには痛み止めの点滴が施され、その副作用により父さんはほとんど眠っている状態になってしまっている。「会える状態」とは、すなわち起きていて意識のある状態を指す。
僕は病院まで急いだ。父さん。
病院に着き、病室まで駆ける。父さん。

そこには、痛み止めの副作用により、やや凶暴になっている父さんがいた。
髪はボサボサで、激しく暴れていた。痛み止めによって幻覚が見えているのだろうか、意味不明なことさえ口走っていた。点滴の管と針が何本も刺さっているその姿は、まさしく恐怖であった。

僕のウデには腕時計。父さんからもらった腕時計。
この腕時計は、先週の今ごろ、もらったんだ。確かに、先週まではあんなに優しいカオをしていたんだ...。

僕は、その場にいるのがとてもつらくなった。
もう長くは生きられない父さんのそばに、少しでも長くいてあげたい。でも、その恐怖の姿を正視できるほどに強靭な精神は、僕にはない。
ジレンマを抱えた僕は、それだけで精神の均衡が脅かされていた。それが、生命の終端を臨む人間のそばにいる、という現実なのか。

ドラマなんて、しょせんは美辞麗句の集合体である。僕は、僕の見た現実を近視眼的にしか書けない。

面会時間の終了とともに、僕はすぐに帰宅した。死を間近に控えた父さんに、「じゃあね」すらも言えなかった。
だが、父さんのしゃべる姿を見たのは、これが最後だった。

 

#107 父さん (4)

5月13日、今日は金曜日である。
その日の会社の帰り、北千住のマルイに寄って買い物をしていた。引越しを手伝ってくれた義兄さんに、そのお礼のプレゼントを買うのである。
もっとも、引越しをしてから二ヶ月近く経ってしまったが。

プレゼントも買い終わり、マルイを出る。そのとき、母さんからデンワがかかってきた。
「話したいことがあるから、帰るときに実家に寄って」。
なんだろう、面倒くさいなあ。僕はそうとしか思わなかった。いま考えると、はなはだ危機感が薄かった。

「お父さん、もって二ヶ月だって。すぐに集中治療室に運ばれたよ」

父さんがたくさんの料理をつくり、客や僕らにふるまった実家の店で、僕は灰色の真実を聞いた。
父さんの生命の終端が、リアリズムを持った瞬間である。伸ばしに伸ばして、余命は二ヶ月。父さんは秋まで生きられないのか。

ひとり暮らしを始めてから、二ヶ月。父さんの余命もまた、二ヶ月。

その夜、逓減していく彼の生命を嘆いた。
二度とあの店の厨房には立てない父。ひとり残される母はどれだけ寂しくなるのか。父を大好きに思っていた姉も悲しむだろう。すぐにケンカ口調になる兄も、それさえ出来ない。すべてが思い出に、過去の出来事に、なる。
僕はとにかく、たくさん泣いた。

あの夜、「仕事してぇなぁ」とつぶやいた父さん。
もう、叶わないんだ。もう、ムリなんだ。それが、死というものなんだ。

そんな中、今年の2月23日に、父さんとふたりで散歩したことを思い出した。
隣りの隣りの町まで、たくさん歩いた。2月にしては暖かい日差しの中、他愛のない話をしながら、ただ歩いた。純粋に楽しかった。すべてが柔らかに、みずみずしく思えた。
その散歩を、春になったらまた父さんとしようと思っていた。でも結局、出来ないまま今日になってしまった。願望が、絶望になった。

肌寒い夜は、涙に濡れた。

 

#106 父さん (3)

5月12日23時すぎ。

自宅に着きしばらくすると、遠くから救急車の音が聞こえた。音は次第に大きくなり、僕の自宅の前を通ったかと思ったら、ちょうど実家の前あたりで止まった。
実家と自宅の距離はおよそ 50m ほど。本当にすぐ近くだ。
僕はひどく心配になり、実家まで走った。

実家の前に停まっている、救急車。不安は、的中した。

僕は、すぐに実家に上がった。そこには、座っている父さんがいた。
父さんが救急車で運ばれることは何度もあった。そのときはいつも、父さんが「倒れた」ときであった。激しい腹痛や、激しい嘔吐など、とにかく常軌を逸する体調で、救急車は呼ばれていた。
だが今回は「座って」いる。母さんに尋ねたところ、念のため救急車を呼んだのだそうだ。それを聞いた僕は、少しだけ安心した。

ただ、父さんに覇気がない。
いつもは、僕ら家族が救急車を呼ぶと「救急車なんて呼ぶんじぇねぇ、みっともねぇ!」と父さんは反抗するのだが、そのときの父さんは大人しく、ただ座っていた。ましてや、それほど体調が悪くなさそうに見える父さんである、なぜそんなに大人しくしているのか。
そこまで体力がなくなっているのか。僕は逆に、不安になった。

担架に乗せられる父さん。「大丈夫?」と僕は尋ねる。「大丈夫だよ...」と父さんは答える。なんでそんなに弱々しいんだ。
担架で運ばれる父さん。彼の目には、あきらめにも似たやるせなさが、映ってる。どうしてそんな目をするんだよ。

玄関のドアが閉まる。このときを最後に父さんは、二度と家に帰ってこなかった。

 

東京異常階段 について

■ 作者:
 文豪きどり
 松岡
 1982/05/29 -
 好きな食べ物は屋台の焼きそば
■ 概要:
 □ 異常階段:
 東京近郊に存在する たぐいまれな階段を紹介
 □ column - TokyoShortSight:
 東京に住むいち人間として近視眼的にモノを見て、そのことについて書いてます
■ メール:
 matsuoka@ijo-kaidan.net

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